メディア・コントロール-正義なき民主主義と国際社会
メディアの役割を考えたとき、私たちはどのような社会に住みたいのかと自問させられる。そのときに浮かび上がるキーワードは「民主的かどうか」である。
実は、「民主的な社会」つまり「民主主義社会」の概念は以下のように相反する二つの考えがある。
・一般の人々が自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響を及ぼせる手段を持っていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会
・一般の人々を彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間の中だけで厳重に管理される社会
そんな民主主義の概念があるかと思われるかもしれないが、実のところ、優勢なのは後者のほうだ。
ここで特筆すべきなのは、後者の概念の目線である。あたかも一般の人々と一線を画すような言い方であるが、まさしくその通りである。
これを観客民主主義と言い、アメリカ報道界の長老、ウォルター・リップマンの主張によるものである。
第一次世界大戦でアメリカ国民は参戦に否定的な立場だった。しかし、政権による宣伝活動によって、半年足らずで世論はヒステリックな戦争賛成論へと転換された。
手口としては、戦時中に両腕をもぎとられたベルギー人の赤ん坊など、ありもしないドイツ兵の残虐行為がでっちあげられた。この大半はイギリスの宣伝機関によって捏造されたものである。
これらの目的は、当時の極秘審議録に書かれているように、「世論の動向を操作する」こと以外のなにものでもなかった。
先のウォルター・リップマンは、「民主主義の革命的技法(=組織的宣伝)」を使えば、「合意のでっちあげ(=公益の実現)」ができると主張したのである。
リップマンは、世の中の公益を実現できるのはそれだけの知性を持った「責任感」のある「特別な人間たち」だけだと考えていた。これは、典型的なレーニン主義の考えと紙一重だ。
精選された少数のエリートが、公益の追及という名目で一般市民を動かす「自由民主主義」
リップマンは民主主義社会を2つの市民階級に分けた。
・特別階級
・とまどえる群れ
特別階級から漏れた人々、すなわち人口の大部分は民主主義社会における役割が「観客」であり、実行者ではない。
この分断の背景には、「一般市民の大部分は愚かで何もできない」という至上の道徳原則がある。
とまどえる群れが問題に関与しようとすれば、面倒を起こすだけである。ゆえに、常に彼らの注意をそらしておく必要なのだ。
まとめ
チョムスキー氏のメディア・コントロールの導入部分をまとめてみた。
チョムスキー氏の語り方が非常に好きだ。市民側の立場を擁護する内容にも関わらず、幾分か上から目線、まるで自らが特別階級であるかのような。
しかしここに狙いがあるように思える。チョムスキー氏は我々市民に何かを感じてほしいのだ。読者は時に怒りを覚え、時に虚無感を感じる。それは解説口調ではないチョムスキー氏の丁寧な語り方が一助になっているようだ。
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